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6さいのばらーど

  • 6さいのばらーど
    ゆーゆ(井上あずみさんの長女7歳): 「NHKみんなのうた」より

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カテゴリー「のすたる爺」の17件の記事

2017年5月15日 (月)

等々力渓谷から自由が丘へ

2017.05.15(月)曇り

等々力渓谷は武蔵野台地の南端、世田谷区上用賀六丁目付近を水源とする矢沢川が侵食してできた全長約1kmの都内唯一の貴重な渓谷で、国分寺崖線沿いに立地している。地形としては開析谷というそうだ。

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東急大井町線等々力駅から徒歩約3分くらいのところにあるゴルフ橋渓谷入口

昭和の初めにこのあたりがまだ等々力村や野毛村だったころ、ここに東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったという。そういえば近くの東名用賀IC沿いに砧緑地があるが、戦前はそこもゴルフ場で戦後は駐留軍に接収されていたと聞いたことがある。いまでは考えられないが、戦前の世田谷は畑が広がるのどかな郊外だった。

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等々力渓谷の案内図

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遊歩道が整備されているが、30箇所以上の湧水があって湿地ができたり水質改善に役立っているそうだ。

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渓谷下流部に日本庭園と書院建築がある。建物は1961年、庭園は1973年に造られた。

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小さいながらミカン畑があった。

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孟宗竹の竹林

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傾斜地の地形を利用した見事な日本庭園だ。この渓谷の公園全体は東京都条例による「名勝」の文化財指定を受けている。癒されます。

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後方が書院づくりの建物、この空洞ができ倒れそうな樹木は梅の木でたくさんの実を付けていた。生きているのが不思議なくらいだ。
ここの公園の維持は、人工物だけに費用もかさむ。たいへんなことと思う。豊かな自治体なのだろう。

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書院の奥が茶室になっていた

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話しかけてみた。フランスから来ているという二人のお嬢さん。神宮外苑あたりのお店で調理の修業しているらしい。カタコトの日本語でもしゃべってくれた。

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日本庭園の芝生広場にて

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渓谷内にあるお休み処 「雪月花」。ところてんやラムネなどを注文した。平日で客も少なくゆっくり休むことができた。

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「雪月花」の上には、「等々力不動尊」がある。

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こんなシーンに出くわした。カメラマンはプロのようだが、被写体のお二人さんはモデルではなさそう。結婚記念の撮影のようだ。

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等々力駅への帰路に見つけたお豆腐屋さん。たくさんの種類が陳列されていた。お店の奥が製造所になっていた。この沿線らしいシャレたお店だった。

時間に余裕があったため、等々力駅から大井町線沿いに自由が丘駅までのんびり歩くことになった。

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自由が丘の老舗洋菓子店、「モンブラン」脇の小路から裏の路地にある予約してあった「状元楼」に入った。

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7人分の前菜からスタート。中華風の茶わん蒸しも気に入った。味付けは品のよい薄味で皆さんには好評であった。アレンジした私としてはまずは安心した。
2時間ほどのディナータイムを楽しむことができた。皆さんは高校の同期生だったので、あっという間に半世紀まえに戻ることができた。私はモト女子高生からはKクンと呼ばれた。充実した1日になったと思う。

皆さんが健康であれば次回は2年後あたりになりそうだ。白洲次郎・正子夫妻が暮らした小田急線鶴川にある茅葺農家を利用した「武相荘」が取り敢えず候補。さらに近くには畦土梅太郎のアトリエも訪れることができる。晩秋のウィークデイがよいと思っている。

2014年11月11日 (火)

三丁目の夕日をみた

2014.11.11(火)

レンタルしてきた3巻のBVDには、あのころのシーンがいっぱい詰まっていた。

昭和33年、昭和34年、茶の間での食事、銭湯、裸電球、木造校舎、色鉛筆、都電の走る道路、昔のミゼット、コロナ、マツダ、ダイハツ、東京タワー、東京オリンピック1964.10.10、日本橋、タカラビール、ローラー絞り器付き電気洗濯機、電気冷蔵庫、扇風機に声をあてる、夏のセミ採り、お菓子の会社(カバヤ、フルヤ)、月刊誌の少年漫画雑誌、たばこやのオバちゃん、模型ゴム飛行機、白黒テレビ、バヤリース、豆腐屋さん、たらいでの洗濯、洗濯板、ニッサン石鹸、力王の足袋、アサヒ地下足袋、集団就職、上野駅、東京駅丸の内、台所タイルの流し、少年の髪型(家で刈る)、駄菓子屋、元気な商店街、豚肉のスキ焼、外看板、捨て犬とか犬殺し、いろいろな境遇、板塀、鋸岳、甲斐駒の山を背景に走る中央線、これは変わらない。プロレス、力道山、蒸気機関車C62、エポック社の野球盤、フラフープ、デリカシーってなに?アメリカのお菓子かなー。こだまの走り、新幹線登場、時代の再現、あのころの街並み、ストリップ劇場、日活映画石原裕次郎、お産婆さん、ホンコンシャツ、足踏みミシン、飲み屋さんのメニュー ビール@140、アイスキャンデー売り、納豆売り、子供のランニングシャツ姿、スバル360
どうしてあんなに楽しかったのか。豊かではなかったが、明日への夢があったような気がする。
六子はいつまでたっても東北弁が抜けない。女優:堀北真希 2008篤姫で愁いを帯びた和宮役を好演したと思う。薬師丸ひろ子:いいお母さん役していた。

2014年10月10日 (金)

ウォーク 多摩川台公園~田園調布

2014.10.10(金)曇り

 高校時代の5名が集まり、京都にお住まいの女性や新潟からの女性(自転車乗り、高校生のときは陸上部)も来られて会合を持った。この日私はウォーキング担当。多摩川駅から田園調布駅まで散策しながら案内した。夕食は自由ヶ丘にて。自由ヶ丘は半世紀も前、高校生のときよく途中下車した駅だ。自宅まで歩いて15分くらいの距離だ。自由ヶ丘デパート内にあったたくさんの種類を誇る餃子センターというお店が楽しみだった。当時、家庭では餃子はまだ珍しいメニューだった。モンブランという有名なケーキ屋さんもここにあった。
 多摩川駅(東急東横線・目蒲線の旧多摩川園前駅)集合、近くの多摩川浅間神社がスタート地点。それから亀甲山古墳のある多摩川台公園から宝来公園を通り抜け、田園調布駅方面へと遠回りしながら歩く。途中閑静な住宅街の中には、優美なカトリック田園調布教会があるし、「小さき花の幼稚園」もあった。線路の向こうにはこのあたりの象徴的存在でもあった会員制の田園テニス倶楽部もあった。私は子供のころコートの外に飛んだ毛のある硬式テニスボールを拾いに行った。多摩川の河原には巨人軍のグランドがあった。ここでもフェンスの外に飛んだ硬式ボールを拾いに行ったことを記億している。子供のときは竹バットにゴムボールで遊んでいたので、要するにこの類のボールが珍しかったのだ。
 午後6時には自由ヶ丘に移動してさらに2名が加わり、予約しておいてくれた磯勢に入り、7名で歓談しながら夕食を共にした。帰宅は10時をまわった。
(註)田園テニス倶楽部には、その昔、田園コロシアムという日本のテニスの聖地といえる施設があった。昭和11年(1936)に日本で初めてテニスの国際試合が開催されたという。ここではプロレスの興行が行なわれたことを憶えている。観戦?に行った。力道山、グレート東郷、ブラッシー、レフリー沖 識名などがリングに上がった。ほかルーテーズ?シャープ兄弟?・・・記憶は定かではない。小さな子供だった私は本気の試合と思いこんで熱心に観戦した。ラストには必ず力動山の強い空手チョップで巻き返して相手を圧し、その強さに感動した。親が「プロレスは筋書のある興行だよ」と言っても全く信じなかった。

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多摩川の対岸にはいま話題の変貌した武蔵小杉地区のタワーマンション群。かつてNECの基幹工場ともいえる玉川事業場があったところだ。橋は中原街道の丸子橋。高台にある浅間神社境内から眺めた。これから晴れれば丹沢の裏手かやや右に富士山が見えるはずだ。
(註)多摩川の流れがきれいになっていた。白い泡は全く見えなかった。子供のときこの川で泳いだ。その時の水の色は泥色っぽかったと記憶している。

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町のシンボル、カトリック田園調布教会と修道院、その奥が大聖堂。子供のときから存在感のあった教会だ。1932年に建てられた。

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ここは大改修された駅施設に変わっていた。西口と東口の垣根がなくなった。この駅舎は田園調布駅のシンボルとして2000年に復元された元西口駅舎。当時はこの入口が西口の改札口であった。
設計は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテルを設計した矢部金太郎といわれている。
西口駅前からに3本の放射状の道路がのび、扇形に広がるここ田園調布の住宅地は大正12年(1923年)から分譲された。

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駅前西側の老舗のしゃれたケーキ屋さん(レピドール Lepi-Dor)は大きく建て替えられていた。2階が喫茶コーナーでメニューをみたらコーヒー@700、価格は立派で上高地の帝国ホテル並みか。高価なコーヒー豆を使っているのだと思う。私達は駅上のスタバ@302で休憩した。西口の醍醐というお寿司屋さんも健在だ。東側には老舗とは言えないが、古くからあるつな八(1F焼き鳥、2Fうなぎ)もあった。果物屋のたからやさんも。
話は尽きずいいお付合いができた一日だったと思う。

【追記】
ここの神社の由緒:今から800年も前、鎌倉時代の創建と伝えられている。祭神は山嶽を守る神、大山祇神(おおやまづみのみこと)の姫君で「桜の花が咲き匂うような・・・」と言われる、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。木花咲耶姫命は、天照大神の孫、瓊々杵尊(ににぎのみこと)に見初められ、皇后となられた御方だそうです。
多摩川浅間神社に以下の内容を記した東京都神社庁発行のしおりが置いてあった。

平成26年10月 生命の言葉
自然に服従し 境遇に従順であれ 森田正馬
解説:まず「あるがまま」を受け入れ、自然や運命に素直に身を委ねなさい。そのうえで努力を重ねてこそ、初めて自身の持つ力が豊かに発揮され、運命を切り開くことができる。
出典「神経症の時代」
生の欲望に従い、不安や恐怖を「あるがまま」に受け取るという考え方に基づく森田療法を確立し、多くの神経患者を治療した。
精神化神経科医 森田正馬(1874~1938年 まさたけ 通称しょうま)
今年、南町田グランベリーモールの映画館でみたディズニーのアニメ、大ヒット「アナと雪の女王」の Let It Go に通じる言葉かなと・・・。

2013年10月 5日 (土)

高校の同期会

2013.10.05(土)小雨

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あれから45年、品川にて開催。45年ぶりの同期生もいて名前と顔が一致しない方も多い。老け込んでいる方。そうでもない方、太った方、やせた方、色気を感じさせてくれる方など色々。恩師は10歳年上だが見た目は羨ましいほど若い。
一気に45年前に戻れるから不思議。

2010年1月25日 (月)

渋谷にて新年会②(高校時代有志)

2010.01.23 土曜 晴れ
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高校1年時の仲間と渋谷で新年会を開いた。42年ぶりに会うOY君(八戸からでてきた。)を含めて7名。
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場所は宮増坂方面にNG君が探してくれた北海道イメージの居酒屋『根室食堂』。
P1230182_2 話は尽きない。60歳のオヤジたちは、18歳に戻ってしまった。

2010年1月19日 (火)

東京港区・三田界隈

2010.01.18 月曜 快晴 寒い
P1180166 この日は所要でJR田町駅にて下車した。ノッポビルができていたが、東京タワーは昔のままだ。
P1180162_2 札の辻交差点からタワーが見え、懐かしかった。私が小学6年のときの完成ではないかと思う。新幹線開業まえには、東海道線に特急こだまが走った時代。当時は確か
6.5時間で大阪と結ばれていたと記憶している。当時毎月買ってもらった「子供の科学」に記事がでていたような気がする。
2年後には押上にタワーができるらしい。私が東京タワーに上がったのは二人の子供ができてからだ。いつでも行けると思うと行かないものだ。

二子玉川にて新年会①(中学時代の有志)

2010.01.16 土曜
P1160067 玉川高島屋10FのイタリアンISOLAに集合した。お店は幹事役の女性が選んでくれた。男どもには相応しくないかも知れない・・・。ピザを焼く窯が備えられていた。
P1160062 二子玉川駅、かつては二子多摩川園前駅といっていたはず。45年ほど前は東京でも場末的な雰囲気の駅とその周辺であった。駅前の二子橋には大井町線が路面に走った。二子玉川と渋谷の間には、玉電と呼んだチンケな路面電車が走っていた。とても懐かしい町だ。
P1160065当時を知る者からするとしゃれた雰囲気に大変身を遂げたと思う。

いまでは玉電ではなく田園都市線という名になって小田急の中央林間まで延びている。つくし野駅あたりは、あの「金曜日の妻たち」の舞台になったところだ。

みなさんとしゃべっていると45年まえに戻ってしまう感じだ。Photoをみると皆さんやはり年輪を重ねたお顔です。3Dクラス当時の委員長だった未亡人OOさんはとてもお綺麗でした。
P1160083 ハイカラなイタリアンはよく分かりませんが、分けていただいたものは全て食べた。焼きたてのピザ(マリゲリータ)は美味しいと思った。普段は口にしない。二十歳のとき初めて食べたピザ、苦い思い出?がよみがえる。
P1160105 展望の良い席で、間接照明も良くさすが場所柄、今風「ニコタマ」のセンスを感じさせるお店であった。

二次会は自由が丘に移動。熊野神社まえの昔風スナックにてカラオケ。最近にしては珍しく12時すぎの帰宅となった。カミさんは怒っていたが、楽しかったです。

2009年5月25日 (月)

ふと新宿西口・思い出横丁

2009.5.20 水曜 快晴

出張先からの帰路、新宿西口に寄ってみた。Img_0015 懐かしさ漂うオヤジ好みの横丁は健在であった。確かかつての火災で整理されたかと思っていた。思い出横丁と看板に書かれているが、学生時分はションベン横丁と私らは呼んでいた。Img_0017 昔は安い鯨のカツもメニューにあった。豚の特殊な内臓(タマ刺しとか骨の髄液など)を食わせる飲み屋もあった。Img_0021 いまは焼き鳥屋が多い。ビールを頼み、うな重@1050を食べて帰宅した。

 西口にはこんなビルもできていた。Img_0027

2009年3月30日 (月)

奈良・東吉野村にて

2009.3.29  日曜Img_0072_2 

土曜の晩は総勢20名で廃校を利用した村営宿舎「ふるさと村」に泊った。なんともいい感じである。夜は山の会KKRの定期総会、ネパール事情の講演会、懇親会と盛りだくさんでした。日曜は明神平登山班とスケッチ班が行動。私は昼前にH隊長と敷地内にある温泉に浸かった。Img_0085 午後にもう1回。春のイベントが行われ、村のおかん達による濃厚な甘酒が振舞われ、即売会も行われていた。Img_0087 ここの桜の開花はまだまだ先のようだ。ここ東吉野村は、幕末混乱期の悲劇「天誅組」終焉の地として、また最後のニホンオオカミ確認の地として知られている。

奈良・大宇陀の旧伊勢街道の町並み散策

2009.3.28  土曜Img_0061

山の会KKNの総会ツアーに参加した。この日は関西のマッターホルンといわれ、冬は樹氷が有名で近鉄の臨時電車がでる高見山にゆく登山班とスケッチ班に分かれた。私はどちらでもないので、由緒ある町並みを楽しんだ。Img_0062建物は江戸時代のものが多い。町で一番大きい造り酒屋さんがあった。杉玉をつるしてある。「初霞」を1本買った。Img_0071

いくつかあるといわれる旧伊勢街道も通じている。

万葉の時代からの歴史をもつ大宇陀の紹介は近鉄のHPサイト内検索、「大宇陀」を入力すると見ることができる。 Img_0054