世田谷 喜多見の野川&小田急の駅のことなど
2017.12.19(火)
世田谷の小田急喜多見駅、新宿側の隣駅が成城学園駅で、静かな住宅地が広がるところだ。そこに国分寺崖線を源とする野川が流れている。川沿いはとてもよく整備されている。散歩やジョギングに最適なところだ。上流には都立野川公園や多摩霊園などがある。緑が濃いところだ。
このお店は喜多見駅から近いところにある。お昼にビールを飲みながら海老焼売を食べてランチでも食べればGood。喜多見の「餃子の王将」よりはよい。混んでなくゆっくりできるのがよい。3人で食事した。
私は相模大野だがこの沿線に住んでいるので、 じっぴコンパクト新書「小田急沿線の不思議と謎」を読んでみた。なかなか興味ある歴史が綴られた記事があった。以下にその一部を抜粋した。☟
成城学園は1917(大正6)年、日本教育界の重鎮だった澤柳政太郎が創設した私立の小学校(成城小学校)に始まり、1932(大正11)年に学園の第二主事である小原圀芳が目指した「一貫教育」を実施するため、成城第二中学校を開設している。
1923(大正12)年に起きた関東大震災ののち、新宿区内からの移転を決め1925(大正14)年、現在の」世田谷区成城へ拠点を移した。
当時の成城は雑木林と原野が広がるさびれた場所で、なぜそのようなところを移転先としたか、だがここには理由があった。まず成城学園は幼稚園から大学までの総合学園を目指しており、そのためにも広大な土地を取得しなければならなかった。当時の成城は雑木林と原野に過ぎず、小田急側は鉄道を敷設する計画はあっても周辺に駅を開設する予定まではなかったようだ。
ここで小原が登場する。彼が考えたのは広大な土地を取得して校地以外の土地を宅地開発し、その利益で学園の建設資金をまかなう戦略である。中学校を移転させると成城玉川小学校、成城幼稚園、成城高等学校を相次いで設立。校地以外を住宅地として開発し町の趣を整えることを条件に小田急から駅開設の約束をとりつけたのである。
小原は耕地と周辺の土地を購入し、区画整理と分譲に着手した。(略)37万坪もの壮大な区画整理が開始された。そして1927(昭和2)年の小田原急行電鉄開通に伴い、成城学園駅が開業する。学園が主体となって学園都市が形成され、ついには駅の開設にもつながったというわけだ。
小原は自らの理想を実現するため、成城学園を退職して新たに玉川学園を設立した。玉川学園の建設資金も宅地開発による利益をあてこむ計画で学園都市の開発に乗り出そうとした。
人気もまばらな土地に駅をつくるという小原の計画に小田急は難色を示したが、小原は交渉のすえ小田急側から諸条件を飲むかわりに駅開業の約束をとりつけている。それは駅の敷地と駅舎を学園で用意すること。一カ月に200円の売上金を学園が保証することだった。その後、玉川学園は開通から2年後の1929(昭和4)年に開業している。これは学園にとって大きな賭けだった。
成城学園と玉川学園の駅の開設経緯はそういうことだったんだ。玉川学園のキャンパスは地形的には多摩丘陵の尾根末端方向にあたり、小田急線をはさんだ両側に広大な自然豊かな敷地が広がる。
成城学園を取り上げてみたので、登山界の成城大学山岳部の活躍を記さねばならないと思う。当時は多くの大学山岳部が積雪期に極地法や縦走合宿を展開するなかで、この山岳部は特筆すべき今でいうアルパインクライミングを目指した。半世紀も前、RCCⅡのメンバーが大活躍した初登攀時代の一角を輝かせた。
【成城大山岳部の主な積雪期登攀】
1959.01.15 北岳バットレス第四尾根Dガリー側フランケ(橋本一豊、山口逸哉)
1959.03.25 鹿島槍ヶ岳北壁直接尾根(橋本一豊、市川章弘)
1959.12.31 穂高滝谷C沢右俣奥壁(橋本一豊、尾崎祐一)
1959.12.31 穂高滝谷グレポン芳野ルート(市川章弘、山田英二)
1960.01.37 穂高滝谷ドーム西壁上半(橋本一豊、市川章弘)
1961.03.22 剣岳チンネ下部左稜線~左方カンテ(山田英二、相羽三郎)
1961.03.22 剣岳チンネ白嶺ルート~成城ルート(長沼雄志、尾崎祐一)
1961.12.20 前穂高屏風岩東稜(尾崎祐一、山田英二)
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