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2015年7月18日 (土)

ランタンプランと雪氷被害・・・公開シンポ(法政大学市ヶ谷キャンパス)

2015.07.18(土)曇り一時小雨

 日本雪氷学会が主催した緊急公開シンポジウムとして、ネパール地震と雪氷被害・現状把握と復興に向けてをテーマに法政大学市ヶ谷キャンパスで7月18日(土)13:00~17:00に開催された。
(註)2015.04.25に発生した巨大地震はネパール全土を大きく揺り動かし、その土地に暮らす人たちの日常生活を奪いました。中でもカトマンズの北方に位置するランタン村は、村の上方に位置する氷河の崩落によると思われる雪崩に襲われ、人口の約4分の1にあたる178人の村人と数多くの旅行者が犠牲となりました。・・・シンポ案内パンフレットより

 なぜランタン(Langtang)かというと、私が1993.04.25~05.06の日程で個人手配のトレッキングに行ったからだ。勤務先の20年勤続時の特別休暇を利用できた。普通は家族と旅行するのが一般的だが、家族の了解を得て若い時に果たせなかった夢(ヒマラヤの高峰を初登頂する・・・不可ならばせめて山懐に入り込む)を実現したかった。就職してからよく働いたと思う。半年は十分に検討してランタンに絞り込んだ。そしてよく調べた。ツアー会社お任せのトレッキングは避けた。多くの画像記録も残し当時の行動は今でも鮮明に脳裏に焼きついている。Photo.だけでなくVideo.(プロのスタジオで編集)も残した。私のこのブログにもランタン渓谷で出逢った子供たちの様子も掲載している。
 勤務の都合で大阪生活が長くなり、1961年の大阪市大第1次ランタン・リルン登山隊の詳細をJACの年報(1962年度)から知ることとなった。大阪市大OB関係者との知遇も得た。過去夏の剣岳長次郎谷雪渓で当時生還した隊員の藤本さんにもお会いしたことがある。今回はここで当時21歳の学生隊員だった伴さんにお会いして話を交わすことができた。現在75歳だという。1978年に初登頂した隊の隊長を務めたと伺った。この穏やかな年輩者からはランタンエリアへの熱い想いが伝わってきた。私はこのトレッキングがきっかけで、45歳で山岳会に入り(1994.12)登山を再開することとなった。

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学会長挨拶・趣旨説明の後、NGO・ランタンプラン代表の貞兼綾子さんによる基調講演が行われた。
ネパール・ランタン村の地震被害と復興に向けた歩み~ランタンプラン活動報告
(註)NGO・ランタンプラン
 このランタン谷で、自然保護と住民の生活向上を目的として、住民の自助努力による代替エネルギー導入等に対する援助を行うために、1986年に発足したボランティア団体です。http://www.wrc.kyoto-u.ac.jp/kohshima/langtang-plan

 現地では煮炊きなど生活に利用するエネルギーはマキである。よってマキを採りすぎれば山の斜面はハゲ山となる。前年の1985年にはここがランタン国立公園となり、環境問題の波がここにもやってきた。マキエネルギーに代わるものを考えようというのが、NGOを立ち上げたきっかけになったという。かつて300人台で推移した村人は1980年台より増え始め600人を越えるようになった。それまではバーター取引で生きてきた。有数の景勝地であるため、観光政策の恩恵を受け経済発展(文明の洗礼)がその背景にあった。現在多くの子供たちは教育を受けるため、カトマンズの寄宿舎で暮らしている。facebookを使っているという。それまでは宗教共同体を基本に助け合いや牧畜の共有など共同体維持の工夫がそこにはあった。村の歴史は400年ほど遡ることができるという。チベット出身が多いという。貞兼さんは現在、ここの人はタマン族といわれているが疑問だと言っていた。

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続く第1部の学術報告、「地震によるネパール山間部の雪氷災害を探る」テーマで研究者等による以下の5件の報告が行われた。

1.氷河崩落によるランタン谷の雪氷災害
 4/25に村で何が起こったか。第1波:ランタン・リルン上部の氷河崩落⇒第2波:雪と氷と土砂の混じった堆積物が高速で流れた。(再生氷河とモレーンの消失)⇒第3波:氷を含む土砂中心の崩落と岩盤崩落、これらが同時多発的に崩落して行った。強い爆風(ブラスト)も発生して対岸の森までなぎ倒したと解説された。

2.衛星データの災害復興支援への利用
 地球観測衛星の画像データから過去画像と合わせてベースマップを作成した。さらに画像解析によりカトマンズ周辺の歪みを分析し、ランタン村の大規模崩落を確認して、関係者へ画像データの提供を行った 。発表者はJAXAの現研究員で院生のとき、リルン氷河に隣り合わせに位置するヤラ氷河の調査でランタン村に滞在し、NGO・ランタンプランとのご縁があった。

3.ネパール山間部で発生した雪崩災害
 村の背後に聳えるこの谷の盟主ともいえるランタン・リルンの6500-7000m付近から崩落が始まり、このU字谷にあるランタン村背後に屏風のようにそびえたつ岩壁上部4100m付近の岩盤が崩落を巻き込み、同時多発的に低摩擦で高速の集団移動体となって大量の氷、雪、岩屑とともにランタン村へと滑り落ちた。氷河崩落によって引き起こされた災害であると発表された。

4.ランタン村を襲った岩屑なだれと雪崩
 日本地滑り学会の現地調査団の一員として調査に加わった。粒径の大きな岩盤が少なく、細粒成分を多く含んだ泥質雪崩と解説した。岩盤が崩れ→岩屑ナダレ→土石流となった。速度は100m/s、デブリは500万立米と見積もった。

5.ランタン谷で発生した土砂・雪氷災害の調査計画
 防災研究分野の研究者からの発表では、雪と土砂が混じると長く走る雪崩になるという。現地調査は小型ヘリ、無人航空機、GPS測量を中心に行う計画とのこと。

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ヘリから撮影した大阪市大OB、和田さんの写真も提供された。ランタン谷最奥に位置するランタン・リ()の登山中(BCにいたらしい)に地震に遭遇した。ランタン村は埋まってしまっていた。

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第2部 パネルディスカッション
「ネパール復興に向けた今後の取り組みについて

 研究者の集まりともいえる日本雪氷学会がこの公開シンポジウムを主催した意味は大きいと思う。雪と氷に関する研究を広く行い、成果の論文発表が目的の研究者がコアの集団といえるが、もともとフィールドワークを伴うテーマだけに関係者の行動力には定評がある。今後の調査研究も重要だが、防災関係者も交え、NGOと連携し立場を越えて今後の復興に取り組んで行こうという真摯な提言と時代の要請に応えようとするこの学会や関係者には希望を感じた。NGO・ランタンプランにとってはランタン村の新しい集落をどこに再建するかの大きな支援に繋がると思う。
 現在28人の村人がデブリの下にある。外国人トレッカーを含め約100人は埋まっているという。デブリの深さは20mとも云われている。本流では50mともいわれる。デブリの量は500万立米とも数千万立米ともいわれている。詳細調査はこれからだ。実測と地球観測衛星を利用した地形図データにより数々の計算が行われよう。科学技術は大いに進歩した。確かに文明の洗礼ともいえる経済発展はあった。しかし、復興への道のりは遠い。
 生き残った村人たちはヘリコプターのピストン輸送で運ばれ、カトマンズのスワヤンブナート(別名モンキーテンプル)に近いイエローゴンパに避難して暮らしているという。

【参考】
日本山岳会年報 第55年(1960年度)ランタン・ヒマール紀行サルバチュム登頂 山田哲雄
日本山岳会年報 第57年(1962年度)未踏の山 ランタン・リルン(1961年) 広谷光一郎
2015年大阪市立大学ランタン・リ登山隊報告書(2015プレモンスーン第6次ランタン・プロジェクト)

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