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6さいのばらーど

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2008年2月17日 (日)

2月17日は母の命日

2008.02.17 

 母は頑張った。大正
8年生まれの母は、戦前、埼玉の農家の末っ子として生まれ、東京の技芸学校で洋裁を学び、目白にある洋裁店にお針子さんとして住み込んで洋裁の技術を身に付けた。戦前ではあるが、進取的な雰囲気のなかで、女性としての躾も受けたと云って、店主のM崎さんを師として慕っていた。可愛がられたようだ。そして戦時中に結婚した。父の給与だけでは生活できず、自宅で洋裁により生活を支えた。年末は納期を間に合わせるため、夜なべで忙しく34年に一度は過労がたたり、正月に寝込むことがあった。晩年は余裕がでてきて特定の方の仕立てに絞り、普段は近所の方たちに洋裁を教えていた。

曲がったことが嫌いで明るく積極的な性格であった。塾などには通わせる余裕などはまったくないが、文部省特選とか選定とかの映画にはよく連れて行ってくれた。フランキー堺の「私は貝になりたい」、瀬戸内海の漁師の舟の漕ぎ手としてもらわれた悲惨な孤児を描いた「かじ子」、若ノ花の「土俵の鬼」などの映画を憶えている。“根性を持って正しく生きろ”と教えたかったのだと思うし、母自身そのように生きたかったのだと思う。『清く貧しく明るく』の母であった。

一方で忙しい合間にも世間に目を向けていた。自宅には『婦人民主クラブ』が定期的に届いていた。市川房江さん、加藤シズエさんなど女性政治家や女性活動家を尊敬していた。地域では子供4人が通った小中学校のPTAを通じて友人知人の輪が広がり、長いお付き合いが育まれていた。旧S会党系の若い女性区議を自分と同じような年齢の女性支援者とともに、地域で45年以上にわたる支援活動をしていた。朝の目蒲線奥沢前で支援者らとともにビラ配りや選挙時には車に乗ってマイクで呼び掛けをしていた。子供たちは「恥ずかしいからやめてくれ」といったが、母は「私の考えでやっていることで、お前たちにとやかく云われる筋合いはない」と頑として撥ねつけた。また忙しい親たちの子供を連れ出す地域のサークル活動にも嬉々として参加していた。

せいいっぱい生きた現役洋裁師の母は、4年前にくも膜下出血で倒れ、搬送先の駒沢の国立東京第二病院で意識が戻らないまま2週間後に85歳の生涯を全うした。お別れの会は目黒の「羅漢寺」で行い、友人知人の皆さんがお集まりくださった。友人代表のご挨拶は長いお付き合いのあった世田谷女性区議のK.T.さんが買ってでてくれた。 合掌      (2004.02.17没)

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